【目からウロコ!】七田式教育の代表 七田厚が語る幼児教育「その時、父は…」第1回 七田 厚

「もっと果物が食べたい!」から生まれた今の私

私が小学校3年生ぐらいのころの話です。私は3人兄弟のいちばん上で、3つ下に妹、5つ下に弟がいます。

ある時、父(七田眞:七田式教育創始者*)が、子供たちにりんごをむいてくれました。でも、8等分に切り分けられた1個のりんごを、きょうだい3人で食べると、アッと言う間です。年齢から言って、私はたぶん、3切れ食べたのでしょう。しかし、それで満足せず、「まだ欲しい!もっと食べたい!」と言ったのです。

その時、父はなんと言ったでしょう?

子供を台所に立たせた父の一言

その当時、父は、自宅で英語教室を開いていました。きっと、次のレッスンが始まる時間だったのでしょう。私の要求に対し、父は、

「自分で切るなら、家中のりんごをみんな食べてもいいよ。」

と、大盤振る舞いな一言を言ったのです。

「ほんと?!」と、私の目がキラリ☆と光りました。

「お兄ちゃん、りんご切れるの?」

「りんごぐらい、切れるよ。」

妹と、そんな会話を交わしたかもしれません。でも、実際は、包丁を使ったことは、ほとんどなかったのです。それでも、その日から、用心深く包丁を使い、自分でむいて食べるようになりました。

時々、果物をむいてくれる父には、もちろん感謝していたのですが、実は、父がむいたりんごには整髪料の香りが移っていることが、唯一、不満だったのです。

自分でむいて食べることで、その悩みも解消されました。そうして、度々、包丁を扱うようになり、徐々に、料理に興味が湧いて来ました。そのころ、もらい始めたおこづかいで、初めて買ったものは、『3分間クッキング』という本なのでした。

高校時代にオリジナル焼きうどんを開発!

時は流れ、広島の高校時代、寮で生活していたころ、その経験が活かされる時が来ました。

育ちざかりの高校生、一通り用意された夕食を食べても、夜食にまた、インスタントラーメンという同級生が多かったんですね。また、日曜日のお昼は、だいたいパンだけだったと思います。

そんな時は、寮の近くのお好み焼きのお店で、焼きうどんを食べたりしていました。でも、高校生なので、そんなにしょっちゅう行くことはできません。母が、実家から段ボールで、私にいろいろ送ってくれていたので、手をかけずに食べられるものはすぐになくなり、残っている中に、うどんの乾麺がありました。
「そうだ!これで広島風焼きうどんを作ってみよう。」そう思ったのが、スタートでした。

いろいろ試行錯誤して、自己流の焼きうどんを作ってみるのですが、思うようにいきません。やっぱり、焼きうどんは生麺だと思い、途中から、生麺に切り替えました。そして、いろんなお店で焼きうどんを注文し、どのようにして作っているのか、研究を重ね、ついに、満足のいく焼うどんにたどりついたのです!

調味料を揃え、具材を入れる量と順番を考え、寮に住む同級生や後輩にも作ったのですが、市場価格の半額ぐらいでできるので、安くて美味しいと評判になりました。寮にあるのは、お湯を沸かすためのコイルを巻いた電熱器だけ、温度調節はできません。それでも、多い日には、一晩に10人以上の夜食を作ったこともあります。

 

今、私は、自分の名前入りのmy果物ナイフで、毎朝、季節のフルーツを切るのが日課になっています。それは、あのとき、父が言った「自分で切るなら、家中のりんごをみんな食べてもいいよ。」という言葉で、私のベクトルが、「自分で料理をする」という方向にググッと向いたのです。

親の何気ない一言が、子供の方向性を左右するというエピソードでした。

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七田眞:七田式教育創始者
現在では、世界14か国に広がる「七田式教育」創始者。著書は200冊を超える。